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チャールズシティ郡()は、アメリカ合衆国バージニア州の南東部に位置する郡である。2010年国勢調査での人口は7,256人であり、2000年の6,926人から4.8%増加した〔Quickfacts.census.gov - Charles City County - accessed 2011-12-06.〕。郡庁所在地は国勢調査指定地域のチャールズシティ(人口133人〔American FactFinder - Charles City, Virginia - accessed 2011-12-06.〕)であり、同郡に法人化された町は無い。リッチモンド市の東、ジェームズタウンの西にあって、リッチモンド・ピーターズバーグ地域にあり、南はジェームズ川、東はチカホミニー川に接している。都市圏としてはリッチモンド大都市圏に属している。 著名な出身者として、第10代アメリカ合衆国大統領ジョン・タイラーの父ジョン・タイラー・シニアがいる。 == 歴史 == チャールズシティ郡となった地域は、数千年前から様々な文化を持った先住民族が領土にしていた。17世紀にヨーロッパ人が接触した時、アルゴンキン語族のチカホミニ族インディアンが、チカホミニー川沿いに、パスパエー族がサンディポイントに、ウェアノック族がウェアノック・ネック地域に住んでいた。パスパエー族とウェアノック族はポウハタン連邦に属する部族だった。すべてがバージニア・アルゴンキン語族だった〔"Archeological Findings" , Charles City County Community Plan Draft, Nov 2008, p. 2-7, accessed 23 February 2009〕。バージニアでは大きな3部族集団の1つだった。 イギリス人が到着した後の1619年、バージニア会社が設立した「ボロ」4つの1つとして「チャールズシティ」が作られた。ジェームズ郡の西にあり、イングランド王ジェームズ1世の次男、チャールズ王子に因んで名付けられた。チャールズ王子は1612年に兄のヘンリーが死んだ後、皇太子となり法定推定相続人となった。父の死後にチャールズ1世となった。1619年、イギリス人はアフリカ人奴隷を輸入し、ウェイアノーク半島に到着した。ここでアメリカでは初となるアフリカ人の町を造った。ウェイアノークは現在も小さな未編入の町であり続けている。 ジェームズ1世治下の1624年にバージニア会社がその認証を失い、バージニアは王室領植民地となった。1634年、国王の命令で、「チャールズシティ・シャイア」が作られた。1643年にはチャールズシティ郡となり、1634年に作られ、現在まで実質的にその政体を続けている5つのシャイアの1つと見なされている。 チャールズシティ郡当初の中心都市がチャールズシティポイントであり、ジェームズ川がアポマトックス川と合流する点の南にあった。チャールズシティ郡の初代郡庁舎は、ジェームズ川沿い、ウェストーバーとシティポイントにあった。その名前は後に短縮され、シティポイントとなった。 1703年、チャールズシティ郡のジェームズ川南の全ての地域が分離されてプリンスジョージ郡となり、その後幾つかの郡が生まれた。シティポイントは後にプリンスジョージ郡の法人化町となった。1923年、シティポイントは独立市のホープウェルに併合された。 ジェームズ川の北がチャールズシティ郡となった。19世紀後半、多くの道路沿いの町が、郡内田園部住人の需要に合わせて、宗教、教育、商業の分野で発展した。アドキンスストア、シーダーグローブ、ビンズホール、パリッシュヒル、ルスビル、ウェイサイドなど交差点の町には店舗、教会、学校があるのが常だった(公立学校が作られたのは南北戦争後だった)。海岸部の他地域と同様、郡内の農園主や商人は、18世紀後半から19世紀初めの大覚醒時代にメソジストやバプテストの説教師の訴えに惹きつけられてきた。19世紀初期にメソジストやバプテストの教会が幾つか設立され、その多くは郡内の上流地域にあった。郡内には多くのクエーカー教徒開拓者もいた。 郡内に中心となる都市や町は無い。チャールズシティという住所を使うプリンスジョージ郡庁舎が郡政府の中心である。郡庁舎1730年代に建設された。独立戦争以前に建てられ、継続して管理目的で使われた郡庁舎として、国内に5か所しかなかったものの1つだったが、2007年にその役目を終えた〔 "Charles City County" , Charles City County Website〕。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「チャールズシティ郡 (バージニア州)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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